鱸ゼミの長い夜

私が大学時代に所属していた鱸(すずき)ゼミは毎年冬になると、叡山電車の終着駅から15分ほど歩いたところのお寺を貸し切ってひと晩お祭り騒ぎをします。これはその、最後の回顧録です。

 

1年前の12月末、私たちはその因縁の寺に足を踏み入れました。定例通り、宴は和やかに開始されました。最初は大広間で3代にわたるゼミ生総勢45人が、ご飯担当班の用意してくれたおいしい手作りオードブルをつまみながら穏やかにお酒を飲むんでありますが、21時半くらい、鱸先生がお帰りになったらそれが、終わりの始まりの合図です。

まず、劣悪な業務用ウイスキーの大きいペットボトルが出てきます。私たちは「ああ、今年も始まったな」とニヤニヤします。酒飲みはたいてい決まっているので、それを見世物にしてすみっこでちびりちびりと日本酒を舐めるのがこの会の粋な楽しみ方。私たちがのんきに歓談繰り広げる一方で、酔っ払いたちはどんどん正体をなくしていきます。T先輩が大瓶を担いで仁王立ち、大広間の真ん中で大見得を切っている隣で、男への恨みつらみを噴出した挙句泣きくずれているのはMさんです。完成されつつある酔っ払いが一定数出揃ってきたところで、ゼミ長さんの大号令。壁に激突したり階段で転倒したりしながら一団はいくつもの座敷が連なる宿泊棟に移動します。布張りの廊下にあちこち残された吐瀉物のシミが、鱸ゼミの歴史を静かに物語っています。「これは2年前に◯◯先輩がつけた跡だ。そのあと彼はふすまに突っ込んでぶっ倒れ、危うく往生しそうになった」「こっちのは◯◯先輩だそうですよ。ついでに壺を割って大目玉を食らったと」などと、官僚になったり法曹になったり大きな会社に勤めたりと今や社会で立派にやっている人たちの恥ずかしい過去の話が聞けるのも醍醐味です。毎年凄惨たる有り様ですが、どうしてだか毎年鱸ゼミはこのお寺を貸し切らせてもらえるのでした。

あんまりお酒の飲めない私たちは、廊下のすみっこに据え置かれた大きな焼き物の灰皿をかこんで、ソファで悠々と高みの見物。各部屋のふすまは開け放たれ、阿鼻叫喚のようすが耳に入ってきます。煙草を吸いながら、来し方4年の大学生活についてしんみりと語りました。就職をするのは私とCちゃんだけで、あとはみんなどこかしらの法科大学院に収監されることが決まっています。なんとも頼りないそれぞれの将来に幾抹もの不安を抱きながら安酒を喰らい、ちょっと憂鬱になってきたところで突然「いかん、『ごちうさ』が始まる!」と絶叫して走り出したのはK君です。

 「なにッ!」

私たち一団はドカドカ廊下を走り抜け、誰もいない座敷のふすまをあけ放ち、コタツに滑り込みました。K君がテレビをつけました。

「間に合った!」

N君がポットから注いでくれた温かい緑茶をずるずる啜り、私たちは『ごちうさ』最終話を鑑賞しました。K君は涙ながらに拍手していました。

ごちうさ』が終わって 部屋を出ると、すでに廊下は死屍累々たる有り様です。向こうから、なにやら野太い男の歌声が聞こえてきます。

「一体なんなんだ……」

幾人もの酔っ払いを踏みつけ、恐る恐る廊下を進んでいくとその歌はどんどん大きくなっていきます。はたして、その声の主はS君でした。

S君は軍歌「抜刀隊」を大声で歌いながら、酔いつぶれた男たちが所狭しと丸太のように転がっている座敷を歩き回っています。次々踏みつけられた哀れな酔っ払いが変な悲鳴をあげても、S君はおかまいなしです。

「なんだこれ」

S君は歌うのをやめて、言いました。

「ぼくは歌でY君を勇気づけてるんだ。なあ、Y君、元気だしてくれ」

Y君は今や立派な酒精中毒者で、部屋のすみっこで丸くなって呻いていましたが、声をかけられて起き上がると畳を四つん這いで進み出しました。女の子たちは悲鳴をあげて逃げ惑います。やがて彼は這ったまま廊下に出ました。見るも悲惨な、孤独な進軍です。

「彼は、どこまでいくんだろう」

「さあ……」

Y君は長い廊下を四つん這いで進みます。トイレに向かうために部屋から出てきた同級生をあっと驚かせ、廊下に転がって動かなくなっている連中を蹂躙し、闇雲にどんどん進んでいきます。

やがて案の定彼は廊下の向こうで盛大に嘔吐し、私たちは「ウワッ」と目を覆いました。

「彼もまた、歴史に名を残したのだ」とK君。

「この床にゲロ跡を残したところで、一体何になるの?」

私が聞くと、彼は神妙な面持ちで

「もちろん、何の意味もない」

と、前を見据えたまま言いました。

 

お酒はそこそこにしてボードゲームを楽しんでいる比較的平和な部屋に混ぜてもらったり、コタツを囲んで今にも殴り合いが始まりそうなほど白熱した討論を交わしている連中をボンヤリ眺めたりしながら、私たち一団はいろんな部屋を転々としました。

  

夜中の2時を回ったところ、K君が「眠い、おれは寝る」と言い出しました。手近な誰も使っていない部屋に入ると、コタツにもぐりこもうとしました。

「 腑抜けたことを!」

「夜はまだこれからだぞ!」

「裏切り者には罰を!」

N君が叫んで、思い切り枕を投げつけました。枕は押入れの中からいくつもいくつも出てきます。それらを全部K君に投げつけてから、さらに落ちていた枕でぶちました。

N君の乱暴狼藉に、K君は「俺の眠りを邪魔するな!」と怒鳴って、枕を部屋中にめちゃくちゃに投げまくり、それを契機に大乱闘が始まりました。

「おのれ、やったな!」

「だいたいお前の論旨はいつも甘いんだ!」

「そう言うお前の指摘はいつも的はずれだよ!」

年明けのゼミが心配になる不穏な空気。

「何の騒ぎだ?」と様子を見にきた連中の顔面に次から次へと枕をお見舞いすると、にわかに始まった大枕投げ大会の参加者はどんどん増えていきます。便乗して暴れたいだけの連中も騒ぎをきいて次々駆けつけ、事態の混乱に拍車をかけました。

12畳間にひしめくようにして、誰しもが見境なく、枕を投げまくります。

 

私とCちゃんはこっそり乱闘を抜け出しました。

「暴れたら暑くなった。アイスでも買いに行こうよ」

「名案だ!」

私たちはパタパタと、草履を履いて麓のコンビニまで歩きます。寒さに震える道中で、4年間の数々の思い出や、卒業を間近に控えたさびしさ、これから自分が始める仕事のことをぽつりぽつりと話していました。ここでは詳しく語りません。未来ある大学生の前向きでちょっぴり切ない話は、こっそり大切にしまっておく方がいい気がします。

空気が澄んで、星がとびきり綺麗な夜でした。

 

アイスを買って戻ると、みんなはぐったり倒れていました。

N君はコタツに足を突っ込んで、いつの間にやらたいそう酔っ払っています。

「……ええか、なあ、宇宙というのんは、たえず、拡張を続けている。宇宙はじつは、遍在している。ちょうど、ぶどうの房みたいになっててな、宇宙と宇宙とはつねに膨らみながら接してんねん。そんなぶどうの房状になった宇宙が最終的に接続されてるのが、ジェームズ・ボンドの右乳首や」

「は?」

「ほら、お前のおるこの空間も、たえず拡張を続けてるんやで。俺たちはな、ジェームズ・ボンドの右乳首にいるんや」

「はあ」

「サッパリわからん」

わけのわからん酔っ払いの戯言を聞き流し、私はチョコレートアイスにかじりつきました。K君はいびきをかいて寝ています。

「それってどのジェームズ・ボンド?」

Cちゃんが聞くと、N君は言います。

「あれや、ダニエル・クレイグや」

「なるほど」

「アッ! きみ、その、きみがちょうど飲んでるそのぶどうジュースあるやん? それもな、ジェームズ・ボンドの右乳首」

「えっ!」

S君が裏声出して驚いて、みんなはドッと笑いました。

 

それから3時間ほど眠って、コタツの中で目覚めるとCちゃんが隣で猫のように丸くなってすやすや眠っていました。部屋を見渡すとひどい有り様です。誰かのまだ新しい吐瀉物のシミが、ヘンゼルとグレーテルがこっそり落としたパンみたいに、お手洗いまで連綿と続いています。これも一つの、くだらん歴史になるのです。

歴史の跡を追いつつ私はひとり、部屋を出ました。  

朝の8時半、まだ誰も起きていません。静まり返った廊下を歩き、そのまま散歩に行きました。

冬の空気はぴりりと冴えて、眩しい朝陽に目を細め、川のせせらぎを聴きながら山の中を歩きます。

 

昨晩、会の始まりに、乾杯の挨拶で鱸先生はおっしゃいました。

「楽しかったみなさんの大学生活もいよいよ終わりです。中には遠く離れた新天地で4月を迎える人もいるでしょう。けれどもどうか、覚えていてほしいのです。これからどんなに大変な日々が待ち構えていようとも、君たちは君たちの過ごした愉快な大学生活の些細なあれこれを決して忘れず、ときどき思い出してほしいのです。大学時代、みなさんの周りにどんな人々がいて、一緒にどんな時間を過ごしたのか。それを繰り返し繰り返し懐かしく思い返すことで、みなさんは自分自身が一体どういう人間であったかを思い出すでしょう。その時、自分は決してひとりぼっちではないということに、もう一度気づくでしょう。さびしいのはなにより身体に毒です。遠くにいたって、今ここにいるみんなが仲間であることに変わりはないのだから。どうか、それだけ忘れないでいてください。

教え子たちがいつまでも仲良く、元気に、支え合ってくれることを私は願っています」

 

私はまだ見ぬ春に思いを馳せました。ささやかに素晴らしい日々であることを願うばかりです。

もっとも大学4年の12月当時、卒業するにはまだ10単位も足りなかったのでした。迫りくる期末試験を思うと薄暗い気持ちに包まれて、きらきら輝く真新しい朝の中を、とぼとぼ引き返しました。 戻ったら吐瀉物の後始末かと思うと、よりいっそううんざりします。